2007年12月29日土曜日

捕鯨

earthwormからcrawlerへとミミズは出世する。
日本では単にミミズだが、アメリカでは出世魚ならぬ出世ミミズ。
欧米では釣りが盛んな事もあり、この様な呼び訳の言葉が存在するのであろう。釣りやハンティングが旺盛な欧米ならではか。

どー

ベルクソン哲学が「出来の良い二元論」なら、カント哲学「判断はどうあるべきか」。
街で良く見かける判断の場面では、誰かが「これこれ。。。こうこう。。。」と思いのたけを述べた後、「どうです?あなたの意見は?」と言って、すぐに答えられずにいると、「そうか、その通りか」と誰かがいい、事態が進む。いまのマスコミのやりくちか。

2007年12月24日月曜日

主客

「生まれ生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥し」矛盾と葛藤の只中にある確実なものとはこれが純粋経験に通じる。二項対立を前提にしているヨーロッパ哲学は、弁証法もそうであるが、二項対立の止揚がうまく行かないときは対立したままの姿がのこってしまう。これではこびりついた錆の様にまずいのではなかろうか。そこで登場する二項同立。根本において同着があることこそ、次の発動をおこす原動力になる。こんなあわせ技に驚くも、イエスかノーかをいちいち言わないというこの論理はすんなりと入っていかない。ただ、入っていなくともこの様な考え方から行動を見る事が出来るのかと感じいる。そこには「行為的直観」と言うような、言葉でなく純粋経験とも言える感覚が存在しなければ不可避であろう。この純粋経験というものは面白くて受け止める力とも言えるのではないか。いやおう無しに分岐する先を選択させる様な海外文化に接した時にこの方法へとうつろうのも悪くは無い。

2007年12月15日土曜日

境界線

世の中にある枠組みを越えてみる。誰かが引いたものとものとの間にある境界線を視点をちょっとかえてみることで変えてみると新しい関係性が生まれてくるものだ。枠組みに囚われないこと。これは日本人が得意としてきた分野なのではなかろうか。日本文化の中にうつ(夢)とうつつ(現)をうつろう方法があるが、まさにそれこそ枠組みを越える方法なのである。夢うつつとなりながらその境界線を越えてみる事がこれからの日本の方法を考える上で重要になってくるだろう。先に読んだ戯曲の中に黒点島というタイトルがあったが、そこに現れていた方法もこの境界線を越えるか越えないかがドイツの壁を視点としてその上に立つ少年の立場から「越えて見れば、、、」と話が続く。この様な作品が現れ評価される事が境界線の重要さが感じ取られてきているのです。

2007年12月2日日曜日

えこ

石油火力発電所における1kWh当たりの石油の消費量は約0.2l/kWh。
家庭で一日に使う電力量を20A * 24h * 100V * 25%ぐらいで12kWhとすると、年間の消費電力量は4380kwhで、石油消費量は12kWh * 0.2l/kwh * 365 = 876lの石油を消費している事になる。ドラム缶に直すと、0.2kl/缶として、876/0.2/1000= 4.4缶分の石油を家庭では消費しているので。ちなみに沸騰水型原子炉なら1.6ベレット(8グラム、1cm角程度)。日本の家庭数を4000万世帯とすると、4.4*4000*10000 = 1.7億缶のドラム缶数になる。一人当たり1缶ちょっとか。

先進国

石油、石炭、ガス、化石燃料の4分の3は「先進国」が消費している。世界石油消費量の25%はアメリカ合衆国が占めているし、人口12億の中国に比べて、人口がその約10分の1の日本の方が石油は2倍消費している。オゾン層のブラックホール、世界各国のフロンガス総排出量の大半をアメリカ合衆国が占めているのは周知。世界の人口の3分の1が飽食している代わりに、3分の2は飢えている。

2007年12月1日土曜日

経営

物事って、やった方がいいことの方が、実際にやれることより絶対多い。やったほうがいいよねって事が山ほどある。だから、やった方がいいことを全部やると、みんな倒れてしまう。なので、自分達はなにが得意なんだっけ、ということを自覚したうえで、「なには、なにより優先なのか」をはっきりさせること。順番をつけること。それが経営だと思います。

ブランド

標準化は、本質的に日本が最も不得手なこと。何しろ国の人口がEUやアメリカ、中国に比べて圧倒的に少ないのだから。人口が少ない、つまり背にする市場が小さいということが極めて大きなハンディになるのである。

2007年10月28日日曜日

旅は人を変えるか

最近は、少しずつ割合が減っているようだが、それでも、ここ数十年来、海外へ旅行する人は多くなっているらしい。 よく、旅行をすると人生が変わるとか言われるが、人生を変えるために皆旅行しようとしているのか、そんなに今の人生を変えたいと思っているか。何かのお祝いや節目で旅行をプレゼントしたりするのもそこを新たな楔として礎として更なる発展を願っての事。
七百万年前、アフリカのサバンナに人間は生まれた。それから人類は、食べるために旅を始めた。人々は旅をしながら自分の住み家を作り、その住処が故郷となった。故郷ができると、また再び旅をする。人は旅を続ける。旅をして原点へ戻れば、故郷を捨て移住することもある。旅をすることを通して大切なものを学ぶ。分岐点が旅の始まりなのだ。

2007年10月13日土曜日

フランシス・ベーコン

1561-1626 神学者 法律家 哲学者
「知は力なり」(Ipsa scientia potestas est)
学問の壮大な体系化を構想しつつ死す

ろう教育を最初に始めた人物。

シェイクスピアと同時代人だが、実はベーコンとのペンネームだという説もあるらしい。

『ノヴム・オルガヌム』(新機関)

現実の観察から来る帰納法を主張。偏見に満ちた思想主義を批判。
イギリス経験論

クリックの先

クリックする事で得られる知識は乏しいのではなかろうか。何も考えずに何も想像せずに次々と進んでします。自分の欲望に素直なままに、満たせてしまう。しかしそれは一時の満足にしかならず返っては将来のタネや目となるべき機会を失っているのではなかろうか。いや位階は十分にあるがそれが生きない無為な時間のみが過ぎている。WEBは辞書と同義であるとした人がいたが、正にその通りで、無目的に関係性を失ったままシソーラスを広げようとも無理があるのだ。

2007年10月11日木曜日

存在

「存在」の方法を問う新しい哲学。ハイデガーとハンナ・アレント。死を選ぶ女性を描いたジッドの『狭き門』、カミュの『異邦人』、起こらない何かを待ち続けるベケットの演劇。
ベケットが机の端に立てかけてある、ほかの書物と一緒になりながら。それに加えてアルトナン・アルトーの言う言葉を越えた所にある演劇とは何かと考える内に彼も興味を抱いていた東洋という雰囲気に引き込まれる。禅は言う、得ようとしない事こそが得る事なのだ、存在しようとしない事が、存在なのだ。

2007年10月7日日曜日

サイクル生産・再生産・清算

一人による拡大再生産は市民を蔑ろにする行為なのではないか。
アーティスト、ミュージシャン、芸術家、特に個人活動家においては
さらには、新しさ、斬新さを常に更新していく義務を負ってしまった
職業は再生産を無駄に過ごし、社会を勇気付ける役に立っているのか
という疑問が湧いてくるのだ。
そんな同一の個人がずっと活躍する必要などは無く、全ての人が
かわるがわる担当を替えれば良い。カリスマなんて言葉に寄り添って
特定の個人が同じ立場に立ち続ける必要なんてないのではないか。
それ程血縁が必要?地縁や職縁でもいいのではと感じる。
それは単なるサイクルのスピードを上げるのとは違う。
変わったものは再び同じ場所に立つかも知れないし、立たなくてもよい。
その時間、その場所、その環境で生まれた一品こそに価値があるという事
を認める意識を持つべきなのだ。

資本主義

最近ってやっぱり生き難い世の中?
何かが段々となくなっていっている。無くなる歴史が無くなる、文化が無くなる、心が無くなる。もう色んなモノが無くなる。無くなる?いやなくしている。意図的になくしてる。資本主義。無限の生産主義。どこまで続けられるのかって、それは世界中が平均化するまで続く。格差が生み出す富の再分配が資本主義の源なのである。じゃぁそのギャップエネルギーが無くなる時がその終焉となる。

2007年9月24日月曜日

なみなみ波

ABB’A’な展開。
AとA’は見方の変え方かな。
Bの体験をする事でA’の目を獲得する事が出来る。方法の戯曲。
テーマは都会と大人手前の子供、聳え立つビルの間に見えるものは、快楽か現実か、憧れか。
スムーズに読めるが前半の「認知」の部分展開がスピード感が無く浮き足立つ足を寄り道へと誘う。
闘争から回帰までの流れの中は面白い。展開が分からなかったところ。波を自己の繰り返す回帰と繋げた幼児退行をにおわせるものであろうか。
オイディプスの様な雰囲気も匂わせるところがニクイ。

2007年9月17日月曜日

柳瀬尚紀

アルキメデスの無理数に関する錯覚、二つの時計に関する論理のパラドックスから論理への興味を引き、数学(代数?)の問題を身近な(といってもBritish文化での身近な)問題に置き換えて複数提示し、読者自らが注意して取り組む事で本書の魅力を高めている。ナイス。
その中でも一番興味を引かれたのは、コートサーキュラーというカードゲームだ。今までこんなゲームは聞いたことが無い。トランプといえば、七並べやババ抜きや大富豪等しか思いつかない所に変わった洋風ゲーム。株やポーカー的な配牌運的要素も強いが中々面白そうなゲームをキャロルは女性に贈ったものだ。そうするとやっぱり女性へ送るゲーム?ヴァレンタインって配役があるってのはそこをくすぐったものだよね。

2007年9月2日日曜日

不実な美女か 貞淑な醜女か

うん。面白いですね。
と一言で片付けてしまうのは勿体ないので。書き残し。
タイトルからすると本の中味は男女の話かと思い勝ちだが、実は違って、ロシア語通訳者の米原万理さんの実体験+人の体験を積み重ねて、日本の文化ってモノの側面を見る内容。
通訳者がいかに時間の女神から見放されているかという話から、多言語間の文脈の違いによって、通訳者は非常に困難かつ面白い体験をしているのだという話。
小国家から大国家まで区別無く持つ母国言語がその国の財産でありアイデンティティであり続ける事の重要性が先の大戦から得られた教訓であるって言われると日本語を学ぶ事って大切だろうと勇気付けられるのである。特に外国語を学んでいる身柄上、自国の言葉以上に外国語を身につける事なんて言われてしまうと、頭をハンマーで殴られたような感動を覚える。
思うに、米原さんは日本と諸外国を繋ぐコミュニケーションの役割に非常に感動し、その仕事に精魂をつぎ込まれている。本書の内容は面白可笑しく描かれてはいるものの、日本における教育問題や、鎖国時代から抜け出せていない至近距離的コミュニケーション、日本の存在についての問題について諭しが入っている。

2007年9月1日土曜日

格差社会 = 競争のない社会?

資本主義市場経済社会国家におけるパフォーマンスはマーケットメカニズムにある。
現在の日本がこのメカニズムにより成立している現実を考えると、この方法をうまく
活用する所に前進の方法があるのじゃないか。格差社会を否定する道具として。

USAにおける医療格差などを考えるとこの方法は逆説的にも見えるかもしれないが、
「お客さん」を至上とする社会というのが良いと考えられる。
マーケットメカニズムには必ず「お客さん」を念頭に置かなければならないからだ。

官製の事業に見るような「民間ではできない」「必要だから」というような頭ごなし
に考える仮想社会は現実には表れない。公における堕落が蔓延している現代では
至極最もな事である。そんな人たちに勝手に考えられた「事」を進めるのに成功はない。

では、お金の無い人たちはどうするのかというのが問題にはなるが、そこにこそ公の
役割が存在する。自由競争の競争からこぼれた人たちを救うセーフティネットをこそ
作らなければならない。官は民に口出しはしない事、そして民の自由競争に漏れた所
を手を出していくべきなのだ。人が多く住んでいる場所・市場へいちいち口を出す
必要はない。

2007年6月17日日曜日

陽明学

雛鳥が飛び方を学んでいるのは、
三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ号泣シテ之ニ随ウベシ、三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ之ヲ逃ル
を目指す。

心理を知る為に偽禅をなさず、知行合一を目指すベシ

2007年4月8日日曜日

やっぱり

徹夜って持っているパワーやスタミナの限界に挑戦する感じだ。
元々寝ないで活動する事が苦手だが、(そのため夜になると必ず意識が遠のく)
徹夜という事を続けても大丈夫だという人も信じられない。
寝ないでどうやって活動するのか?
集中力なのだろうか。
ずっと体を動かしている状態ならまだ分からないでもないが、
座った状態で何か、例えば、書く作業をずっとしているなんでのは、
とても信じられないのだが。

2007年3月6日火曜日

春?

昨日は春の嵐。6月並の暖かさ。
エルニーニョ現象と地球温暖化の影響が重なったらしい。

2007年3月3日土曜日

疲れ

疲れ気味な最近。
先日,公演を無事終えたのだが、その時は暫くゆっくりするつもりだったのだが、
有難い事に色々と仕事?の依頼等を頂きゆっくりしていない毎日を送る。
うーん、まだ暫く続きそうだが。
まぁ楽しくて勝手にやっているのだから文句の言い様はありません。

2007年2月10日土曜日

なかなか

中々、自分の思うようには行かないものだ。
若い頃には何でも出来るって思ったりしてた。
学校の勉強をしたり、習い事をしたり、一生懸命に努力をすればそれは何でも叶えられる事なんじゃないかって思ってた。
今この年齢になってみてそれは自分には合わない考え方なんじゃないかと思い始めてきた。なんでもかんでも出来る訳じゃない。それは、子供である世界と違って社会には色んな世界がありそれぞれの世界には多くの人々が暮らしている。そんな社会で色んな世界にちょこっと顔をみせていい顔をして去っていくって行き方は無理なのだ。やっぱりどこにでもプロはいる訳でそのプロが居るからこそそれを消費する人々が居て経済が成り立って需給の関係が成り立って居るんだ。そんな基本的な事に今更ながら気づく。いや、気づくというよりもそれを真正面から見る機会を避けていた気がする。
こんな観念的な事を書いてしまうのはそれも薄っぺらいって事なのかと自虐的になるね。
でも、それを考えられるだけの余裕があってまだ良かったと思う。思考が硬直してしまわない内に出来る事をしておこう。これから先、選択を行おうと思う。自分の世界を見据えて何処に居るのが心地良いのか、そこで何をするのか、どこのプロになるのかを。

2007年1月25日木曜日

米国の高額所得者と失業者

先日米国の小売店の役員が退職したそうだ。
それで、世界の失業者数がうなぎのぼりらしい。
ちょっと言いすぎか。
それでも、2006年はその前の年寄り340万人も多いのだそうだ。
合計で1億9520万人。
日本人の数よりも大分多い訳です。
世界的には企業の業績は回復傾向にあるけども,雇用構造改革等によって、
会社を去って職を失っている人が増えている事が一つの要因。
ただそれよりも驚いた事には,1日2ドル以下で働いている「ワーキングプア」と呼ばれる
人が13億7000万人も居るそうで失業者とあわせると15億人以上。
ワーキングプアとか呼ばれるのは御節介だが、
世界の人口が60億人で職業につける人が4/5ぐらいだと大体1/4ぐらいの人が
雇用と賃金が不十分な事になる。
それだけ多くの人がそこまで生産性の無い仕事をしている訳が無く、何処に恩恵が
もたらされているのか。
ちなみに冒頭の役員は退職金に2億ドルもらえるそうだ。
2ドル生活者の一億人分。
こんなところにお金は集まっていたりする。

2007年1月20日土曜日

Hの標本

最後まで飽きずに楽しめる内容。
レプリカントはビデオで見てその音楽とパフォーマンスに魅力を感じて,
観に行こうと思っていたのだが,念願かなって今日見る事が出来た.
内容を書く事は遠慮するが,
音楽に重点を置いた構成になっていて,
そのテンポにあわせるようにパフォーマンスが突いて行っている印象を受ける。
悪い意味じゃなくて,見ている方にとっては,そのリズムに乗りさえすれば
舞台の内容がすんなりと理解できる構成になっている。
身体に直接響く音楽はいつも効果的であると感じるが、それが存分無く発揮され,
うまく乗せるコツを捉えているのだ。
音楽って何でしょうね。パーカッションの様なテンポ,特定のテンポを刻む事が
身体に影響するのか。ダンスクラブなどもそうだ。所謂ダンス曲。
特定のテンポを刻む。身体はそれに慣れてくる。いや慣れて来るというよりは,
合わせて行くというのか。普段とは違う音量も多分に影響している。
もしくは,他の観客と同調するのかも知れない。
リズムをもっともっとあからさまに使うのが良いだろうか。
で、次回の舞台に期待する。
音により過ぎるてパフォーマンスとのバランスが気になる所もあったんです。。。

2007年1月19日金曜日

戯曲ってやっぱり曲なんでしょうか。
曲=リズム・テンポは人に感動をもたらす重要なところ。
重要なのはどんな内容をやり取りしてるかじゃなくて,
その声の大きさやテンポやイントネーションが重要なんじゃないか。
それと体と。
って言ってしまうと語弊があるかも知れないが,
表面的というか一義的な言葉の意味って言うのは重要じゃなくて,
その裏にある内容が,その人の,またはそのシチュエーションの奥にある物が大切で,
それを聞いている人・見ている人が読み取る事が感動につながるんではないかと。
今更ながらに考えてみたりする。
直接は分からない所をどうやってみてもらうかって所が必要なんかなぁ。

2007年1月17日水曜日

雨に濡れると風邪をひき易いのだろうか?
雨に濡れると肌が冷えて体温が下がり,それを補おうとしてエネルギーを消費するから?
そのエネルギーが少なくなった状態だと何かしらの菌にでも感染しやすくなるのか?

加藤文太郎という人は登山家であり日本アルプスの冬山を超人的なスピードで踏破する
事で有名だが,この人は冬山で寝ると死ぬといわれている常識を覆すかの様に,容易く
冬山でビバーク(野宿)をしていたそうだ。
ただ、単純に野宿をすれば良いものではなくそれなりの装備が必要と唱え,
十分な腹ごしらえと寒さを避ける為の装備や日頃の訓練が必要なのだと。
まぁ辺り前といえば当たり前で,他の大勢の人がやっては駄目という事をやろうってんだから
それなりの準備と言うか構えと言うものは必要なのであろう.

で,雨に濡れると風邪をひくのかという所であるが,これも加藤文太郎氏にならい,
十分な~があればそう恐れるものでも無いのではないかと感じるのである.
雨の日でも傘がいらなくなるかもね。

2007年1月14日日曜日

線の先

じっと見てもらうためには。聞いてもらう為には何が必要か?
という問い。
見てもらうためには集中力をその瞬間持って貰わないとならないが,演じる方がその集中力を持つ事によって逆に見る側もそれにつられていくのではないかと仮定した。
見せる側の雰囲気を伝搬するのかも知れない。
思えば、良くあるのは全く経験の無い人が舞台上で演じる時、それを見る観客はドキドキしながら見てしまうような事がある。これと同じ事かと少し考える。でもこれは芝居の中身に見入っているよりも役者の動きだけを見てしまっている嫌いがある。あくまでも芝居の中の役者を見て欲しいのだ。芝居の中の役に集中する事で同化し経験を得る。それが必要なのではないかと。
話が逸れそうだが、集中力を保って貰うために必要な役者の集中力に必要なのは目線・呼吸・緊張なのか?呼吸と緊張は似ている。体の波の動きだ。どちらかと言うと寄り具体的な目線と体(胸)の動きが重要なのではないかと考える。方向性とでも言うのだろうか。役者が対している対象に目を向けるのが観客。とするならば、お客さんは役者を見ているのではなく寧ろ役者が見ている物を見ているのでは無いだろうか。それは単なる物だけではなく人間や風景や物や心情や時間や空間も含まれるのだろう。
とりあえず目線に注意しやってみることにする。

2007年1月7日日曜日

廃車

長年付き添ってきた愛車が廃車同然になった。
フロントタイヤがぐにゃぐにゃに曲がって取り返しのつかない事になり、
タイヤとして機能しない状態にある。全然回らないのだ。
これはさすがに元に戻す事も出来ず、自転車屋さんに相談する。
ただ、車輪だけを取り替えようと望んだのだが、車輪自体が置いていない!
欲しかったのは前輪だけなのだが、さらに片方の車輪だけになるともう全然ありませんとの事。
仕方なく取り寄せてもらう事にする。納期は10日ぐらいかかるそうだ。
足を失った私は暫く電車に頼る事になりそう。
ってでも自転車屋もなんで車輪を置いてないんでしょうね?
車輪が壊れたら皆自転車ごと買い換えるもんなのかな。
まぁ確かに車輪だけで一万円以上すると考えるかも。。。

2007年1月5日金曜日

新年

新年を迎えたので。。。
部屋の模様替えをする事にした。
といっても窓に面していた机を壁の方へ移動しただけ。
ちょっと窓が眩し過ぎて目が疲れるので,暗い方へと移動。
ついでに脇机も移動。
余っていた何か用の台も移動。
洋服ハンガーの位置も移動。
何やかんや移動。

気づいたら物の位置が大分変わっている。机だけ移動する予定だったのだが、中々思うようには行かないなぁ。ちょっと狭くなった気もする。。。
やっぱ全体を先にイメージしとかないとね、一つだけって訳にはいかない様だ。

2007年1月2日火曜日

惜しむるは

「命を惜しむな、名を惜しめ」
たまたま見たTVドラマでの台詞.なかなか現代では無い感覚に新鮮さを覚える.
考えてみれば命を惜しむのは何の為かという問いに対する答えは明確には持っていない.そこで名を惜しめを言われればそうかと納得してしまう所がある。というのも何かをする為に命が続いているという考え方が裏に根付いているからだ。何かをなす⇒名を残すという関係,名を残す影響度から考えると命がそこに付随してくる構図。つまり名が残っていればその命が燃焼した事になる。というのはどうだろう。ちょっと寄り過ぎかな。
命が続いて何が出来るか。という事を思い直す。