2008年6月22日日曜日

はじめて考えるときのように

哲学書というよりは教養の実用書としてかかれ、ポップな絵も挿入されていてうまく作ってあるなぁという印象をもつ。結構面白い内容がかかれている。ヘウレーカ!と叫ぶ事はなかったけれども、考える事につちいてのイメージを広げた後に、考える事を問うことと言い換え、論理的思考、枠組み離論、身体感覚へと繋がる。身体感覚などは現代社会で忘れそうな捉え方なのでこの本の最終に挿入されている事はなかなか意味深い。そんなに高尚な事は書いてないけれども個人主義というような言葉が生まれる中にあってそれをまた問い直すきっかけにすすめ。


2008年6月20日金曜日

現象学

現象学:

ドイツ観念論の完成者としてのヘーゲルがデカルトやカントを引き継いで、全体社会的で人間悟性的な思想を発展させていったところに現象学を生んだ模様です。物と認識の分離、神と人間の分離、自己意識の肯定を進めた人たちでしょうか。とてもヨーロッパ的ですし、ヘーゲルはアジアが嫌いだった見たいですね。


■ヘーゲルの現象学
ヘーゲル(1770年 - 1831年)
ドイツ観念論を代表する思想家。
ヘーゲルの精神現象学は、単純な感覚的確信から始まり、絶対知へ至るまでの精神の弁証法的発展を叙述する学問である。

原意は精神の現象学。ヘーゲルの哲学大系の中では、「精神現象学」とは「意識」を問題とする哲学の分野。「精神現象学」の領域における「意識」の発展を、ヘーゲルの弁証法に基づいて示せば、

1. 意識そのもの
2. 自己意識
3. 理性

の3段階を示す。「意識そのもの」の段階では、「感性的意識」から「知覚」へ、そして「悟性」へと認識が深められる。次にこのような認識の主体としての「自己」が自覚され、「自己意識」が生じる。この「自己意識」と同質な意識を他者にも認めることによって、他人の「自己意識」をも認識し、単なる自我を超えた普遍的な、他者との共通性を持つ「自己」、「理性」の現れとしての「自己」を認識にするに至る。この過程が「精神現象学」である。

一方で『精神現象学』ではやや異なる広い意味での「精神現象学」が記述されており、前述の「理性」段階に至るまでの「精神現象学」に続いて、「客観的精神」「絶対的精神」をも考察の対象に含める。つまり「意識」あるいは「主観的精神」のみならず広く「精神」一般をその対象に含む。


■フッサールの現象学。
フッサール(1859年 - 1938年)
フッサールにおける超越論的現象学は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。

今日一般的に「現象学」と呼ばれるのは、「解釈学」と並ぶ現代ドイツ哲学の二大潮流の一つで、フッサールによって提唱されたものを指す。フッサールは従来の認識論が立っていた「意識」を自明視する態度を斥け、この態度を以下の3点から特徴づけ批判する。

1. 認識の対象の意味と存在を自明的としていること[1]
2. 世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること[2]
3. 世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却[3]

このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止することで(このような態度をエポケーという)意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。