2009年3月15日日曜日

LNG

液化天然ガスは石油より環境への影響がすくないのか?
LNGが燃焼したときの二酸化炭素排出量はカロリー当りで、石油より少ない。ただし、主成分であるメタンの地球温暖化係数は、21と大きいらしい。地球温暖化係数とは、二酸化炭素を基準に、その気体の大気中における濃度あたりの温室効果の100年間の強さを比較して表したもの。
つまりメタンは21倍の強さ。地球温暖化対策の推進に関する法律施行令第3条というものによると、C炭素をCO2に換算してもガソリンが2300ぐらいでLNGが2700程度と2,3割増しとか。

2009年3月11日水曜日

統帥権干犯問題 帷幄上奏権

ロンドン海軍軍縮条約締結に対し、海軍が政府に対して反対意見を唱えた事に始まる。政府が天皇の統帥権を侵しているとして野党から批判、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。結果として濱口内閣は総辞職。軍部(統帥部)が政府決定や方針を無視して暴走を始める。

明治憲法下では軍の統帥権が天皇にあったが、編成権(部隊編成、予算編成など)に関しては国務大臣が補弼すると憲法に記載されているが、慣習的に軍令については国務大臣が輔弼せず統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた。また、統帥部は、軍事に関する情報を内閣に通さず天皇に報告(帷幄上奏)できた。
  第11条 天皇は陸海軍を統帥す
  第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
  第55条 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
  第 5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
  第64条 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし

軍の兵力量の決定は、陸海軍大臣も内閣閣僚として属す政府が帝国議会へ法案として提出し、その協賛(議決)を得るべき事項であった。

2009年3月10日火曜日

ブルーノ・ムナーリ

(1907-1998)は、イタリアの美術家。美術家、グラフィックデザイナー、プロダクトデザイナー、教育者、研究家、絵本作家など数多くの顔がある。ボリス・ヴィアンのよう。1960年代以降はしばしば日本を訪れ、日本の伝統的な美意識やデザインに共鳴し、影響を受ける。1950年代からイタリアのダネーゼ社のためのプロダクトを数多くデザインし、その後も家具、照明器具などの工業製品のデザインを数多く残している。1967年アメリカ・ハーバード大学へ招かれビジュアル・コミュニケーション・デザインの講義を行う。「役に立たない機械」などはイタリア前衛美術「未来派」を代表する。

2009年3月9日月曜日

双子の赤字

貿易赤字(経常赤字)と財政赤字。1980年代の米レーガン時代の財政収支をさしてこう呼ぶ。背景には、レーガン政権において高金利政策が行われたことによってドル高が進行し、海外製品の流入が起こったこと。また、スターウォーズ計画のような防衛政策に対する巨額の財政支出や減税政策が行われたことなどがある。需要超過を満たすことによって高インフレから脱出することが可能。使えば使う程良いということか。ただし赤字。政府支出を増やすと貿易収支が悪化する。米国は基軸通貨のドルを発行できるためにこのような赤字に陥っても。ドルをバンバンだして世界にばら撒けばまたドルが安くなるのだからよいのだろう。

2009年3月5日木曜日

ダーウィン

チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1882)はイギリスの自然科学者。
 全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、彼が自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした。進化の事実は存命中に科学界と一般大衆に受け入れられた一方で、自然選択の理論が進化の主要な原動力と見なされるようになったのは1930年代であり、自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つである。そのため生物学のみならず社会学などへも応用された。
5年にわたる英国測量船ビーグル号での航海は彼をチャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持した著名な地理学者として確立した。またその航海記は人気作家としての地位を固めた。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。当時囚人流刑地であったガラパゴス諸島のゾウガメの様々な変種の多さ、また生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることから、新しい生息地と生物がその変化に適応して成長するアイデアを思いつく。そして1838年に自然選択説を思いついた。後の『種の起源』へとつながる。『種の起源』は自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立した。『人間の由来と性に関連した選択』、続く『人及び動物の表情について』では人類の進化と性選択について論じた。

優生学
ダーウィンはいとこのフランシス・ゴルトンの1865年の議論に興味を覚えた。ゴルトンは遺伝の統計分析が道徳や精神的能力は遺伝することを明らかにし、動物の品種改良の原則は人間に応用できると主張した。『人間の由来』でダーウィンは弱い者が生きて家族を持つことは自然選択の利益を失うことになると指摘したが、弱者への援助を控えることはわれわれの同情の本能を危険にさらすと警告した。彼は人の共感能力や道徳心も自然選択によって形作られたと考た。ゴルトンが研究を出版し、「生まれつき能力がある人」の中で近親婚を推奨したとき、ダーウィンは実際的な困難を予想して「唯一実現可能な人種の改善計画だが、まだ夢想的だと恐れる」と述べ、単に遺伝の重要性を公表して個人に決定を任せる方を好んだ。ダーウィンの死後1883年にゴルトンはこの考えを優生学と名付け、同時に生物測定学を発展させた。自然選択説がメンデル遺伝学によって一時的に失墜していたとき優生学運動は広範囲にひろがった。この誤った解釈が広がり、ベルギー、ブラジル、カナダ、スウェーデン、アメリカ合衆国を含むいくつかの国で断種法の強制となった。特にナチの優生学はダーウィンのアイディアの信用を傷つけた。

社会ダーウィニズム
ダーウィンの進化論は社会学にも適用される。道徳や社会正義に関する概念を記述的にのべることは倫理的な「である-べきである」の2元論的問題を引き起こす。トマス・マルサスは資源供給を超えた人口増加が破綻をもたらすと主張した。これは1830年代に収容所や自由放任経済が正当化されるのに用いられた。進化は社会的含みがあると見なされていた。ハーバート・スペンサーの1851年の本『社会静学』は人間の自由と個人の解放のアイディアの基盤にラマルク的進化の概念を用いた。ダーウィンの進化理論は「説明」の問題であった。ダーウィンは「ある動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理だ」と考え、進化は進歩ではなく目的もないと見なしたが、『種の起源』の出版のすぐあとから批判者は「生存のための努力」というダーウィンの説明をイギリス産業の資本主義をマルサス主義的に正当化するつもりだと言ってあざけった。ダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念、エルンスト・ヘッケルの人種差別的な進化観など他の多くの進化に関する思想に使われた。