2008年1月20日日曜日

夜と鎖

人生の目的ってそれを見つける事。
若返った気持ちになってそんな事を考えてみる。
最近のニュースを見ていると、これは良く言われる事だが、胸が痛む様な事件が多い。それは単純に残酷なという意味ではなく、人としての有り方に締め付けられる。数年前であったか妻に出て行かれて父子家庭となった父親が「生活に苦しくなった」と小学生の二人の子供を抱えて高層ビルから飛び降り心中したのである。それだけならまだという感もしないではないが、その後の親子の部屋から見つかった手紙にはこうあった。「おかあさん、ぼくたちが天国からおかあさんのことをうらむ、おかあさんもじごくへいけ」。なんとも言えない。こんな時代なのか、豊か過ぎる時代だからこのような残酷さも現実のものとなってしまうのだろうか。いや逆にこの親子は貧しさの中にはまっていたのかも知れない。豊かなのではなく、貧しさのためなのだ。今日本は二極化の時代へ突入しようとしている。アメリカの夜が忍び寄る日本。そこに生まれる豊かさの影に潜む貧しさ。心の貧しさではなく金の貧しさ。我々は聖人ではない。この切り離せない現実に立ち向かうには、世界に迎合せず袂を分かつ勇気が広がる必要がある。

2008年1月19日土曜日

かな

古来日本の伝承術であったオーラルコミュニケーションから、漢字文化の流入による仮名の発達に日本の方法を見ることが出来る。それは言語術の発展であり、らしさの追求であるといえる。と言うのも、日本語の発音に見られる同音異義語や洒落、シャレ、オノマトペイアなどの方法がその文化進展、伝承を表し、今日の我々にもその感覚、ネイチャー感覚を齎してくれるからだ。
最初の仮名の発展は平安期に遡り、古今和歌集を真名序と仮名序の二つの序文に表した紀貫之の活躍が見逃せない、その後の「かな」を使った土佐日記もしかり、大きく日本の方法を見つめ、本居宣長や今日へと方向を示した立役者ではなかろうか。
現在の日本におけるそのような編集を試みる人は何処にいるのか、それを見てみたい。