読書について

読書とは何かというと、そのまま読むという事。
読むということは刺激を受けて考える事になるのではと思います。自分の思考の訓練であり、知的な活動といえます。知的な活動に価値があるのかというと、知的な活動なくしては人間としての人生の生きている意味が薄れてしまう気がするのです。その意味を求めるために知的活動をしているのでしょうか。どちらが先なのだろうか。意味というものを人生に求めるという事が既に違っているかも。意味を持つとはなにか?良いことなの?なぜ人は生きるのか生きなければならないのだろうか。非常に難しい。恐らく解決不能。この世の中に生れ落ちて、その時間を生きている訳ですが、単に時間を過ごしているというのではなく、その動きこそが時間となり動きとなり活動となる。動きこそが時間。ウゴかな駆れば時間は過ぎないし、意味がない。うーん、なぜここでも意味という言葉を使ってしまうのか。意味という漢字を調べてみましょう。

意:音+心。「言を察して意を知るなり」音は言(祝詞)に対して、「神の音なひ」すなわち「おとづれ」その神意を憶度すること。意味を展開して、おしはかる。広く物事を推量して考える。考えてその意思を定める事。意味=おもむき。

本を読むという行為についてです。本を読むという事は意味がある事か。時間は過ぎそれは活動していることになるか。相対性理論をアナロジーにすると、時間はその動きの速さに影響をうけるといいます。ここが何かキーになっている気がしてならないのです。

「脳幹    = 爬虫類の脳 = 生きるための基本   」

「大脳辺縁系 = 馬の脳   = 喜怒哀楽・感情    」

「大脳新皮質 = 人の脳   = 五感・言葉・記憶・思考」

考えて、人間が生きるという事は、その動物の脳を隅っこにおしやって人間の脳を生きる事です。

コメント