■弁当(辨當)
【語源】
「弁当」は、「好都合」「便利なこと」を意味する中国南宋時代の俗語「<font size="2"><strong>便當</strong></font>」が語源ともされており、「便當」が日本に入り「便道」、「辨道」などの漢字も当てられた。「弁えて(そなえて)用に当てる」ことから「辨當」の字が当てられ、「辨當箱」の意味として使われた。
【歴史】
古代
稲の栽培がはじまった弥生時代には、とれた米を蒸かして乾燥させたもの「糒(ほしいい)」を持ち歩き、水やお湯でもどして食べていた。猟や農作業などの作業途中に食事をとるために家から持って行ったと考えられる。
<strong>
糒(ほしいい)</strong>を衣(きぬ)の中に包みて坂田に到る
(日本書紀)
「糒(ほしいい)」を布で包んで持ちながら歩き、坂田に着いた。「糒(ほしいい)」とは「干し飯 (ほしいい)」は「乾飯(かれいい)」とも言う(伊勢物語「東(あずま)下り」)。
家にあれば 笥(け)に盛る<strong>飯(いい)</strong>を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る
(万葉集 有間皇子(ありまのみこ))
というのがあります。家では竹でこしらえた曲げ物の器(うつわ)「笥」にこんもりとごはんを 盛るのに、今は旅の途中なので椎の葉っぱの上に盛る、という歌の意味ですが、実は無実の罪に問われて死刑場にとらわれの身となって護送されている途中に 詠んだ歌です。「糒(ほしいい)」「乾飯(かれいい)」は、昔から日本人の 携帯食だった。
平安時代
「干し飯(ほしいい)」または「糒(ほしいい)」と呼ばれる調理済みの乾燥米も利用されていたが、携帯用の食料として「<strong>頓食</strong>(とんじき)」と呼ばれたおにぎりが登場する。甑(こしき)という蒸し器で蒸したごはんは固いので「<strong>強飯</strong>(「こわいい」と言い、現在の「おこわ」のこと)」とも言いますが、釜で炊いたごはんはやわらか く、これを「<strong>姫飯</strong>(ひめいい)」と呼んだそうです。現在、私たちが食べているごはんはこの「姫飯」なのです。そして、この「強飯」や「姫飯」を卵形におに ぎりにしたものを平安貴族は「<strong>屯食</strong>(とんじき)」と呼びました。また「屯食」は宮中の女房(女性の仕官)など、女の人の言葉で「<strong>おにぎり</strong>」とも呼ばれていました。「おむすび」という呼び名もありますが、これは手や指を合わせて形を作ることを「むすぶ」と言うところからきたものだと考えられているようです。「源氏物語」には、主人公の光源氏が元服する時に、家来たちに「鳥の子」という卵形をしたおにぎりをふるまったという場面もある。
「屯食(とんじき)、禄の唐櫃(からびつ)どもなど、所狭(せま)きまで」
(源氏物語)
(祝いの品としておにぎりや唐櫃(衣類などを入れる玉手箱みたいな箱)などが所狭しと並べられた)
むかし、男ありけり。<font size="1">(中略)</font>三河の国、八つ橋というところにいたりぬ。<font size="1">(中 略)</font>その沢のほとりの木かげに下<font size="1">(お)</font>り居て、<strong>かれいひ</strong>食ひけり。<font size="1">(中略)</font>
唐衣<font size="1">(からころも)</font>きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人<strong>かれいひ</strong>の上に涙落してほとびにけり。<font size="1">(後略)</font>
(『伊勢物語』新潮日本古典集成 新潮社1976年)
安土桃山時代
茶の文化が進む事で、弁当は花見や<strong>茶会</strong>といった場でも食べられ、現代でも見られるような漆器の弁当箱が作られるようになる。
江戸時代
天下泰平の時代になると、弁当はより庶民の間でも市民権を得る。旅行者や観光客は簡単な「腰弁当」を作り、これを持ち歩いた。腰弁当とはおにぎりをいくつかまとめたもので竹の皮で巻かれたり、竹篭に収納されたりした。能や歌舞伎を観覧する人々が幕間(まくあい)に食べる特製の弁当として、「<strong>幕の内弁当</strong>」が登場する。弁当のハウトゥー本も多数出版された。ひな祭りや花見に向けての準備を行う庶民のためにこれらの本には弁当の具体的な調理方法や包み方、飾り方などが詳しく書かれていた。
明治時代
給食もなく、また外食施設が発達していなかったため、役所に勤務する官吏たちは江戸時代からあるような腰弁当を提げて仕事に出掛けていた。そのため、安月給の下級役人は「腰弁」などと呼ばれていた。また明治初期の学校では昼食を提供していなかったので、生徒と教師たちは弁当を持ってこなければならなかった。明治初期には、鉄道駅で最初の「<strong>駅弁</strong>」が発売された。当初の駅弁はおにぎりと沢庵を竹の皮に包んだような簡易なものであった。サンドウィッチのようなヨーロッパスタイルの弁当が現れ始めたのもこの頃からである。
大正時代
第一次世界大戦とそれ以降に不作により、学校に弁当を持って来る慣例を廃止する動きがあり社会問題に発展した。東北地方など地方から都会への移住者が増えたため、所得格差が大きくなり、弁当に大きな貧富の差が表われた。当時の人々はこの現象が肉体的な面からと精神的な面から、子供たちに好ましからぬ影響を与えると考えたのである。
昭和初期
アルミニウムをアルマイト加工した弁当箱が開発された。壺井栄の小説『二十四の瞳』に描写されるようにそれは目の覚めるような銀色をしており、またメンテナンスの容易さもあって当時の人々から羨望の的となる。またかつて小学校の冬の暖房装置にストーブ類が多用されていた頃は持参したアルマイト弁当箱ごとストーブの上に置き、<strong>保温・加熱</strong>するということも行われた。
第二次世界大戦後
学校の昼食は給食に切り替えられ全ての生徒と教師に対し用意されるようになった。これによって徐々に学校に弁当を持参してくる習慣は少なくなった。
1970年代
駅弁は国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンもあって鉄道で観光旅行に出かける人が増えると各地の素材や郷土料理を活かしたもの、観光地にまつわる物などより多様なものとなった。中小規模の企業で自前の食堂を持たないところを対象に、弁当を配達する業者も一般的となった。持ち帰り弁当専門店(通称:<strong>ホカ弁</strong>)の台頭。急激に普及した<strong>コンビニエンスストア</strong>での販売で、そこで販売される弁当は店の電子レンジを使用していつでも温めて食べられることが売りとなった。スーパーマーケットの<strong>惣菜コーナー</strong>にも弁当が並ぶようになった。これらは「弁当を持ち帰って食べる」という新しい流れを作り出した。また都心部の食堂が少ない地域に、弁当を売りにくる業者も急増した。弁当の配達業者も、時間指定で温かいものを届けることを売りにするものが現れ始めた。これらの現象と呼応するように、ドカベンに象徴される金属製の弁当箱は耐熱性プラスティックなどの弁当箱に変わっていった。
一方で行政がコストを削減させる目的で一部地域の学校では給食制度が廃止となり、家から弁当を持ってくる習慣が復活しているという。弁当の調理は家 庭の主婦の仕事とされてきたが女性が外に勤めに出ることも多くなったなどの事情もあり、コンビニエンスストアで買ってきたおにぎりやパンを持参する生徒も 多くなった。
平成時代
コンビニエンスストアが地方でも一般的になり温かい弁当が一般化すると駅弁でも化学反応を利用して加熱できるタイプのものが登場した。2003年頃から、空港で販売される弁当「空弁」がブームとなっている。乗客は空港での待ち時間や飛行機に乗っている間にそれを食べている。2005年からは、(主に母から子への)愛情弁当の「キャラ弁」が流行となっている。
現代
低価格の<strong>250円弁当</strong>が路面店で売り出され、採算の合う大都市中心部で流行している。以前から低価格の弁当は存在していたが、カテゴリとして確立したのはこの頃である。また、節約のために弁当持参をする人が増えた。弁当男子という独身男性が自ら弁当を作って持参する言葉が生まれた。さらに1970年代に開発、発売された保温弁当容器も進化を遂げて一昔前の大きな弁当箱というイメージは薄れ男性用ビジネス鞄に入るスリムなタイプが登場した。近年は女性向けに小型化されてカラフルでおしゃれなタイプの保温弁当箱も登場している。
【語源】
「弁当」は、「好都合」「便利なこと」を意味する中国南宋時代の俗語「<font size="2"><strong>便當</strong></font>」が語源ともされており、「便當」が日本に入り「便道」、「辨道」などの漢字も当てられた。「弁えて(そなえて)用に当てる」ことから「辨當」の字が当てられ、「辨當箱」の意味として使われた。
【歴史】
古代
稲の栽培がはじまった弥生時代には、とれた米を蒸かして乾燥させたもの「糒(ほしいい)」を持ち歩き、水やお湯でもどして食べていた。猟や農作業などの作業途中に食事をとるために家から持って行ったと考えられる。
<strong>
糒(ほしいい)</strong>を衣(きぬ)の中に包みて坂田に到る
(日本書紀)
「糒(ほしいい)」を布で包んで持ちながら歩き、坂田に着いた。「糒(ほしいい)」とは「干し飯 (ほしいい)」は「乾飯(かれいい)」とも言う(伊勢物語「東(あずま)下り」)。
家にあれば 笥(け)に盛る<strong>飯(いい)</strong>を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る
(万葉集 有間皇子(ありまのみこ))
というのがあります。家では竹でこしらえた曲げ物の器(うつわ)「笥」にこんもりとごはんを 盛るのに、今は旅の途中なので椎の葉っぱの上に盛る、という歌の意味ですが、実は無実の罪に問われて死刑場にとらわれの身となって護送されている途中に 詠んだ歌です。「糒(ほしいい)」「乾飯(かれいい)」は、昔から日本人の 携帯食だった。
平安時代
「干し飯(ほしいい)」または「糒(ほしいい)」と呼ばれる調理済みの乾燥米も利用されていたが、携帯用の食料として「<strong>頓食</strong>(とんじき)」と呼ばれたおにぎりが登場する。甑(こしき)という蒸し器で蒸したごはんは固いので「<strong>強飯</strong>(「こわいい」と言い、現在の「おこわ」のこと)」とも言いますが、釜で炊いたごはんはやわらか く、これを「<strong>姫飯</strong>(ひめいい)」と呼んだそうです。現在、私たちが食べているごはんはこの「姫飯」なのです。そして、この「強飯」や「姫飯」を卵形におに ぎりにしたものを平安貴族は「<strong>屯食</strong>(とんじき)」と呼びました。また「屯食」は宮中の女房(女性の仕官)など、女の人の言葉で「<strong>おにぎり</strong>」とも呼ばれていました。「おむすび」という呼び名もありますが、これは手や指を合わせて形を作ることを「むすぶ」と言うところからきたものだと考えられているようです。「源氏物語」には、主人公の光源氏が元服する時に、家来たちに「鳥の子」という卵形をしたおにぎりをふるまったという場面もある。
「屯食(とんじき)、禄の唐櫃(からびつ)どもなど、所狭(せま)きまで」
(源氏物語)
(祝いの品としておにぎりや唐櫃(衣類などを入れる玉手箱みたいな箱)などが所狭しと並べられた)
むかし、男ありけり。<font size="1">(中略)</font>三河の国、八つ橋というところにいたりぬ。<font size="1">(中 略)</font>その沢のほとりの木かげに下<font size="1">(お)</font>り居て、<strong>かれいひ</strong>食ひけり。<font size="1">(中略)</font>
唐衣<font size="1">(からころも)</font>きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人<strong>かれいひ</strong>の上に涙落してほとびにけり。<font size="1">(後略)</font>
(『伊勢物語』新潮日本古典集成 新潮社1976年)
安土桃山時代
茶の文化が進む事で、弁当は花見や<strong>茶会</strong>といった場でも食べられ、現代でも見られるような漆器の弁当箱が作られるようになる。
江戸時代
天下泰平の時代になると、弁当はより庶民の間でも市民権を得る。旅行者や観光客は簡単な「腰弁当」を作り、これを持ち歩いた。腰弁当とはおにぎりをいくつかまとめたもので竹の皮で巻かれたり、竹篭に収納されたりした。能や歌舞伎を観覧する人々が幕間(まくあい)に食べる特製の弁当として、「<strong>幕の内弁当</strong>」が登場する。弁当のハウトゥー本も多数出版された。ひな祭りや花見に向けての準備を行う庶民のためにこれらの本には弁当の具体的な調理方法や包み方、飾り方などが詳しく書かれていた。
明治時代
給食もなく、また外食施設が発達していなかったため、役所に勤務する官吏たちは江戸時代からあるような腰弁当を提げて仕事に出掛けていた。そのため、安月給の下級役人は「腰弁」などと呼ばれていた。また明治初期の学校では昼食を提供していなかったので、生徒と教師たちは弁当を持ってこなければならなかった。明治初期には、鉄道駅で最初の「<strong>駅弁</strong>」が発売された。当初の駅弁はおにぎりと沢庵を竹の皮に包んだような簡易なものであった。サンドウィッチのようなヨーロッパスタイルの弁当が現れ始めたのもこの頃からである。
大正時代
第一次世界大戦とそれ以降に不作により、学校に弁当を持って来る慣例を廃止する動きがあり社会問題に発展した。東北地方など地方から都会への移住者が増えたため、所得格差が大きくなり、弁当に大きな貧富の差が表われた。当時の人々はこの現象が肉体的な面からと精神的な面から、子供たちに好ましからぬ影響を与えると考えたのである。
昭和初期
アルミニウムをアルマイト加工した弁当箱が開発された。壺井栄の小説『二十四の瞳』に描写されるようにそれは目の覚めるような銀色をしており、またメンテナンスの容易さもあって当時の人々から羨望の的となる。またかつて小学校の冬の暖房装置にストーブ類が多用されていた頃は持参したアルマイト弁当箱ごとストーブの上に置き、<strong>保温・加熱</strong>するということも行われた。
第二次世界大戦後
学校の昼食は給食に切り替えられ全ての生徒と教師に対し用意されるようになった。これによって徐々に学校に弁当を持参してくる習慣は少なくなった。
1970年代
駅弁は国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンもあって鉄道で観光旅行に出かける人が増えると各地の素材や郷土料理を活かしたもの、観光地にまつわる物などより多様なものとなった。中小規模の企業で自前の食堂を持たないところを対象に、弁当を配達する業者も一般的となった。持ち帰り弁当専門店(通称:<strong>ホカ弁</strong>)の台頭。急激に普及した<strong>コンビニエンスストア</strong>での販売で、そこで販売される弁当は店の電子レンジを使用していつでも温めて食べられることが売りとなった。スーパーマーケットの<strong>惣菜コーナー</strong>にも弁当が並ぶようになった。これらは「弁当を持ち帰って食べる」という新しい流れを作り出した。また都心部の食堂が少ない地域に、弁当を売りにくる業者も急増した。弁当の配達業者も、時間指定で温かいものを届けることを売りにするものが現れ始めた。これらの現象と呼応するように、ドカベンに象徴される金属製の弁当箱は耐熱性プラスティックなどの弁当箱に変わっていった。
一方で行政がコストを削減させる目的で一部地域の学校では給食制度が廃止となり、家から弁当を持ってくる習慣が復活しているという。弁当の調理は家 庭の主婦の仕事とされてきたが女性が外に勤めに出ることも多くなったなどの事情もあり、コンビニエンスストアで買ってきたおにぎりやパンを持参する生徒も 多くなった。
平成時代
コンビニエンスストアが地方でも一般的になり温かい弁当が一般化すると駅弁でも化学反応を利用して加熱できるタイプのものが登場した。2003年頃から、空港で販売される弁当「空弁」がブームとなっている。乗客は空港での待ち時間や飛行機に乗っている間にそれを食べている。2005年からは、(主に母から子への)愛情弁当の「キャラ弁」が流行となっている。
現代
低価格の<strong>250円弁当</strong>が路面店で売り出され、採算の合う大都市中心部で流行している。以前から低価格の弁当は存在していたが、カテゴリとして確立したのはこの頃である。また、節約のために弁当持参をする人が増えた。弁当男子という独身男性が自ら弁当を作って持参する言葉が生まれた。さらに1970年代に開発、発売された保温弁当容器も進化を遂げて一昔前の大きな弁当箱というイメージは薄れ男性用ビジネス鞄に入るスリムなタイプが登場した。近年は女性向けに小型化されてカラフルでおしゃれなタイプの保温弁当箱も登場している。
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