大岡裁判

大岡越前守は、江戸時代中期の名奉行として知られる大岡忠相の事。

彼の名奉行ぶりは、後年に創作された「大岡政談」に詳しくが、『畔倉重四郎』『村井長庵』『徳川天一坊』『越後伝吉』『小間物屋彦兵衛』『縛られ地蔵』など幕末に人気を博して、写本や講談、歌舞伎などに発展している。その殆どは彼の名奉行ぶりから出た創作であると検証され『白子屋お熊事件』ぐらいが実際に行った裁きだとか。

その物語の有名なものの一つに大岡越前が実母権を争う二人の女の裁きがある。彼は白州で実母を主張する二人の女に、子供を両方から手を引っ張らせています。結局、実母は痛がる子供が不憫で手を離してしまうのですが、大岡は手を放した女こそ母である、との裁きを下す。

彼の話のほとんどが中国の『棠陰比事』や『板倉政要』で書かれた裁判話の焼き直しだと言われています。しかし、『棠陰比事』に見る実母権を争う二人の女の話も元を糺していくと旧約聖書・ソロモン王の名裁きにあたります。

旧約聖書の列王記には、互いに実子と主張し一人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承があります。ソロモン王の前に現れた二人の女に一つの決断をしました。剣を持ってこさせると、子供を二つに断ち切り、半分ずつにせよ、と申し渡しました。そして何も知らずに眠る子の上に冷たく光る剣が振り上げられたそのとき。一人の女が「その子を斬らずにあの女にあげてください、お願いです」と叫びます。これを聞いたもうひとりの女は勝利を確信しましたが、ソロモン王は、「生きている子をその女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ」と裁きを下す。

これらの話は、イスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事を経由し、エピソードに翻案され含まれたと考えられている。また永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、チベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響でまぎれこんだといわれている。

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