アパルトヘイト

Apartheid、分離、隔離の意味を持つ言葉。南アフリカ共和国における白人と非白人の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策である。1948年に法制化され、以後強力に推進された。80年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後、ANC(アフリカ民族会議)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、国際連合に「人類に対する犯罪」とまで言われたこの制度は完全撤廃された。基本的には17世紀以来のものであるが、アパルトヘイトという言葉は、1913年の原住民土地法に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が人種差別を制度的に強化した1948年以降である。差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は490万人にすぎない。
白人政府は、「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展するべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」と表向き主張した。しかし、ねらいは少数の白人による政治的経済的特権を維持し、安価な労働力を非白人から供給することにあった。黒人達は白人が経営する農園や工場で働き、給料は白人の10分の1以下だった。しかも失業が多いため、一人の給料でたくさんの親戚を養うことも多かった。住む家も、空き地に粗末な小屋を立てて生活する人たちも多勢いた。黒人達が住むホームランドや黒人居住区の道路は舗装されていない道が多く、舗装されていても穴が多く、維持・管理が不十分であった。
1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国となり、翌1988年に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明(ガルバ声明)、さらには国連総会では日本に対する非難決議が採決された。

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